Bリーグを牽引するのはこのPGだ!バスケの花形PG6人を紹介
「PGってどんな役割なのだろう…」
「Bリーグで活躍するPGの選手を知りたい!」
このように、Bリーグで活躍するPGの選手について気になる方も多いのではないでしょうか。
Bリーグは、国内最大の男子プロバスケットボールリーグです。
3部制で全45チームからなるリーグの最上位である1部では、日本で最もバスケのうまいプレイヤーたちが、日々熱い試合を繰り広げています。
ゲームを行う上で最も重要なポジションとされているPGは、チームの花形プレイヤーであることが多く、Bリーグを観戦する際には注目すべきポジションなのです!
今回は現在Bリーグを代表するPG6名を、ballaqの独断と偏見でピックアップしました。
では、順に説明していきますね。
目次
1.PGの役割と要求されるスキル
バスケは5人のプレイヤーでチームを結成し、オフェンスやディフェンスを行うなかで、様々なフォーメーションをとります。
常にそれらのフォーメーション全体を把握し、試合中にボールをもっとも保持するポジションのことをポイントカード(PG)といいます。
優れたPGがどのように優れているのかの判断基準として、ポジションの簡単な役割とスキルを紹介します。
(1)PGの役割
ポイントガードはこれまで、オフェンス中にもっともボールをコントロールするポジションとして「第2の監督」と称されてきました。
ポゼッションごとに適切なセットプレイを選択し、チームメイトに得点をさせる司令塔、それがPGの役割なのです。
最近では得点力が高いPGを起用するチームも増え、自らの手で得点することもPGの役割とされるようになってきました。
(2)PGに要求されるスキル
PGがオフェンスの起点になる場面は多く、オフェンスを成功させるためにはボールハンドリングやシュート、パス能力などあらゆる能力が必要となります。
技術面だけではなく、試合全体の流れを読む力、チームをまとめ上げる統率力など精神的な面でもチームを支えなければなりません。
トップPGたちが持っているスキルを参考にすると、PGというポジションに必要なスキルが見えてきますよ。
・リーダーシップがある
・全体を見渡す視野
・スピードがある
では、順に説明します。
#1.リーダーシップがある
ゲームやプレイヤーのレベルが上がるほど、プレイや展開の複雑さは上がります。
ゲーム中PGは、多くのシチュエーションに合わせたプレイを率先して味方へ指示しなければなりません。
的確にチームを得点に導くには、技術面や精神面などさまざまな面からリーダーシップを発揮する必要があります。
#2.全体を見渡す視野
バスケのゲーム中は常にプレーが続きポゼッションも頻繁に変わるため、全体を見渡すために一度立ち止まって落ち着くような暇はありません。
PGはコート上の監督として、プレイを組み立てる役割も果たさなくてはいけません。
コート上で起きていることを把握するために、視野の広さがとても重要なのです。
#3.スピードがある
バスケではポゼッションが激しく入れ替わります。
オフェンス時に一番最初にボールを持ち、長い時間ボールを保持するPGには、思考と肉体両方のスピードが求められます。
両方のスピードがあることで相手のディフェンスの切り替えより早く攻め入る(速攻)こともできますし、ドライブで相手の陣形をくずしたあと、得点の可能性が高い味方にパスを出したりすることができます。
2.小さな日本のエース、富樫勇樹
生年月日 | 1993年7月30日 |
出身 | 新潟県 |
身長 | 167cm |
体重 | 65kg |
出身校 | モントクロス・クリスチャン高校 (アメリカ) |
所属チーム | 千葉ジェッツ (B1 東地区) |
身長167センチと、BリーグにいるPGのなかでも小柄な部類に入る選手ですが、オフェンスディフェンスともに日本トップレベルの選手で、その実力は国際大会でも通用するほど。
富樫勇樹の素晴らしい実績やプレイスタイルなど紹介していきます。
(1)経歴、実績
幼少期からバスケプレイヤーとしてメキメキと頭角をあらわしていた富樫は、高校進学時にさらなるバスケのスキルアップのため、日本の高校ではなくアメリカのモントローズ・クリスチャン高校に進学しています。
またアメリカの高校に行きながらも日本代表に選出されたりと、長年日本代表として活躍しているPGでもあります。
高校卒業後、富樫は2012年Bリーグの前身であるbjリーグの秋田ノーザンハピネッツに入団します。
2012-13シーズンでは新人賞を獲得するなど、プロ入り直後から輝かしい活躍をしており、2014年7月にはNBAサマーリーグにダラス・マーベリックスの一員として参加し、日本人2人目となるNBA選手契約をマーベリックスと結んでいます。
しかしながら2年の海外バスケリーグへの挑戦期間が身を結ぶことはなく、2016年にNBLの千葉ジェッツの一員になるかたちで日本のバスケ界に戻ってきました。
2019年現在、Bリーグもとい日本のバスケをけん引するPGとして活躍を続けています。
(2)プレイスタイル
富樫は低身長のPGには珍しく、積極的に得点を狙いに行く現代型のプレイヤーです。
軌道の高いフローターと高確率の3Pシュートを武器に、自分より背の高いディフェンダーを翻弄しています。
スクリーンを使って相手ディフェンスとのあいだにズレを作り、間合いがなければドライブでペイントエリアに侵入し、間合いがあれば積極的に3Pを打つ、ディフェンスにとっては守りづらいプレイヤーです。
勝負強さももち、クラッチタイムにシュートをいくつも決める富樫は、まさにチームの大黒柱といえます。
(3)エピソード
富樫勇樹は輝かしい経歴を持ち、2019年現在も第一線で活躍をしている選手です。
バスケエリートとして活躍を続けている彼の原点は、いったいどこにあるのでしょうか。
彼がバスケを始めたきっかけと、彼の特徴的なヘアスタイルについてまとめました。
#1.バスケを初めたきっかけ
富樫勇樹がバスケを始めたのは、父親である富樫英樹さんの影響が大きいと言われています。
英樹さんは当時中学バスケットボール部の顧問をしており、富樫は英樹さんに勧められるまま小学1年生の時にバスケを始めたそうです。
現在開志国際高校バスケットボール部で監督を務める英樹さんは、中学バスケを指導していた頃から多くの大会でチームを優勝に導いている名将で、富樫が中学生の時には、英樹さんの指導のもと全国優勝を果たしています。
#2.こだわりのヘアスタイル
富樫勇樹のヘアスタイルはサイドツーブロックコームオーバースタイルと呼ばれ、サイドを刈り込みトップ部分をサイドに流しています。
クラシカルなヘアスタイルとして清潔感や誠実な印象がありますね。
富樫はテレビ番組のインタビューのなかで、サッカー浦和レッズ槙野選手のヘアスタイルについて「ヘディングなどで乱れない秘訣や槙野選手が使っているジェルを知りたい」と発言していることからも、彼のヘアスタイルへのこだわりは強いものがあるようです。
富樫勇樹のようにかっこいい姿でバスケがしたい、あるいは富樫勇樹と同じヘアスタイルにしたいと考えている方は、ジェルとグリースを併用することで強度のあるセットができるので、ぜひお試しください。
3.NBAに挑み続けるファンタジスタ、並里成
生年月日 | 1989年8月7日 |
出身 | 沖縄県 |
身長 | 172cm |
体重 | 72kg |
出身校 | 福岡第一高校 |
所属チーム | 琉球ゴールデンキングス(B1 西地区) |
並里成は中学時代から華麗なパスやドリブルが注目され、ファンタジスタと呼ばれていました。
2019年現在も高い身体能力を活かした彼のプレイは、常に周囲を圧倒し続けています。
長年にわたってNBA入りのためにさまざまな挑戦を続けており、日本リーグのシーズン参加期間が短くなってしまうことも多いですが、それでも彼の活躍やインパクトの大きさは、他のプレイヤーには見られません。
今回はそんな並里成についてまとめていきます!
(1)経歴、実績
並里はスラムダンク奨学生の一期生として、高校卒業後アメリカのプレップスクールに通いながら大学進学を目指しますが、大学からのオファーはなく進学を断念、2009年高卒ルーキーとしてリンク栃木ブレックスに入団します。
入団後なかなか出場機会に恵まれなかった並里はリンク栃木ブレックスを退団、NBAに挑戦する決意をしますが、当時のNBAではロックアウトが行われていたために選手契約ができませんでした。
帰国後特例としてbjリーグへの参加が認められ、入札の結果琉球ゴールデンキングスと契約をします。
その後もシーズンが終わるタイミングでNBAへの挑戦を行ったり、かつてチームをともにしたスタッフのいるチームへ移籍をしたりと、自分の意思で活躍の場を選びながら成長を続けているプレイヤーです。
(2)プレイスタイル
並里成はその高い身体能力を活かし、スピードのあるドライブや、空中での不安定な姿勢からのパスやシュートを的確に行うのを得意としています。
特にそのドライブ時のストライドの大きさは、日本人離れしたものがあります。
小手先のテクニックではなく、洗練されたステップワークと鍛えられた筋肉で勝負する彼のプレイは、見るものすべてを虜にするでしょう。
(3)エピソード
並里成はコート外でも、バスケに対する姿勢やファションなどで注目を集めています。
特にNBAを目指す気持ちは日本人プレイヤーのなかでももっとも強く、挑戦のためのトレーニングやコンディションの調整の仕方は参考になる点も多いでしょう。
今回はそんな並里のNBA挑戦の第一歩になった出来事と、着用しているバッシュについて紹介します。
#1.スラムダンク奨学金の1期生
並里成は早くからNBAに行くことを目標としていて、福岡第一高校の卒業後には、スラムダンク奨学生の第1期生としてアメリカのプレップスクールに行くことを選択します。
スラムダンク奨学金とは、漫画「スラムダンク」の作者である井上雄彦さんが創設した奨学金制度で、高校卒業後もバスケットボールを続けたい人を対象とした留学支援制度です。
同学年のなかでも特に注目度が高く、NBA行きの意思が強かった並里成が1期生として選ばれ、アメリカにバスケ留学をしていました。
当時のチームメイトには、2019年現在デンバー・ナゲッツで活躍しているアイザイア・トーマスもいました。
#2.着用バッシュ
並里成がコート上で注目を集めるのはプレイだけではありません。彼の派手なヘアスタイルやスニーカーも魅力のひとつです。
着用しているスニーカーはアシックスのGELTRIFORCESOといい、並里自身が着用している理由は、かかとがしっかりとホールドされているのに指先までしっかりと動かすことができる、というものです。
GELTRIFORCESOはバスケの動作の安定に役立つとても人気があるモデルですが、並里の着用でさらに愛用するプレイヤーは増え続けています。
4.勝気なイケメンPG、宇都直輝
生年月日 | 1991年6月11日 |
出身 | 愛知県 |
身長 | 191cm |
体重 | 80kg |
出身校 | 専修大学 |
所属チーム | 富山グラウジーズ(B1中地区) |
宇都直輝はBリーグでイケメングランプリNo.1に輝いたことがあるほどの甘いマスクをもち、女性を中心にとても人気があるプレイヤーです。
彼の甘いマスクはもちろん魅力的ですが、身長191cmという恵まれた体格を活かし、強気なプレイを行う攻撃型PGとしての実力は本物です。
外見もプレイもまさにイケメンなPG、宇都直輝について見ていきましょう。
(1)経歴、実績
宇都は中部第一高校に入学してすぐ、レギュラーとしてチームを引っ張っていました。インターハイや国体、ウインターカップなどの大舞台も経験しています。
高校卒業後は関東大学1部リーグに所属する強豪の専修大学に進学し、ここでも入部直後からレギュラーを獲得、1年生から3年連続でリーグの得点王に輝いています。
大学卒業後トヨタ自動車アルバルク東京に入団しますが、同年代の田中大貴をはじめとしたスタープレイヤーたちにプレイタイムを奪われ、2016年には富山グラウジーズに移籍、現在はスタメンPGとして2019年現在も活躍をしています。
(2)プレイスタイル
宇都直輝は191cmと恵まれた体格に類いまれなボールハンドリング、そして闘志をあわせ持ったプレイヤーです。
セットオフェンスのなかでは積極的にドライブを仕掛けるというより、ビッグマンやシューターに対してのアシストや、相手PGとのミスマッチを利用したポストプレイを多用しています。
逆にアーリーオフェンスでは持ち前のスピードを活かしたドライブで得点する場面も多く見られ、オフェンスのペースの切り替えがうまいプレイヤーです。
またその持ち前の身長を活かしてディフェンスリバウンドをとることで、速攻を仕掛ける(Coast to Coast)ことができるのも彼のプレイの特徴です。
(3)エピソード
ハングリー精神溢れるプレイを見てもわかるように、宇都は昔から自分の感情を表に出す、いわゆるやんちゃな性格の持ち主でした。
現在ではプロのバスケプレイヤーとして複数シーズンを経験したり、私生活でも結婚を経験し、落ち着いてプレイを行えるPGになってきました。
今回は宇都少年がどのようにしてバスケを始めたのか、またやんちゃだった彼に変化をもたらした奥さんの存在についてまとめました。
#1.バスケを始めたきっかけ
小学生時代の宇都は引っ込み思案で、両親はそんな宇都のために、野球や空手、水泳などのいろいろなスポーツを経験させていたそうです。
宇都がバスケと出会ったのは小学4年生の時で、サッカー部に入ろうと入部希望用紙を用意していたところ、バスケ経験者のお母さんが勝手にバスケ部と書き換えた結果、バスケ部に入部したのがきっかけだそうです。
もし彼のお母さんが入部希望用紙を書き換えていなければ、現在Bリーグで活躍する宇都の姿を見られなかったのかもしれません。
#2.奥さんの存在
宇都直輝は2017年に結婚をしており、2018年には第一子となる息子さんが誕生しています。
宇都にとって奥さんはメンタルコーチのような存在で、アドバイスをもらったり激励をもらったりと、モチベーションを保つために大切な存在となっているようです。
結婚をしてから苛立ちを抑えることができるようになったと話す宇都にとって、奥さんは宇都を成長させてくれる存在のようです。
5.元祖イケメンバスケプレイヤー、五十嵐圭
生年月日 | 1980年5月7日 |
出身 | 新潟県 |
身長 | 180 cm |
体重 | 70kg |
出身校 | 中央大学 |
所属チーム | 新潟アルビレックスBB(B1 中地区) |
五十嵐圭はバスケの強豪高校を渡り歩いてきたエリート選手で、北陸高校から中央大学に入学し、大学卒業と同時にプロ入りを果たしています。
日本バスケのリーグ構造が頻繁に変わり続けるなかで、プロバスケを長年にわたって盛り上げてきた功労者でもあります。
今回は五十嵐圭について、詳しく紹介していきます。
(1)経歴、実績
五十嵐圭は小学6年生の時からバスケットボールを初めてすぐに頭角を現します。
高校は強豪北陸高校に進学し1年生の時からレギュラーとして活躍しますが、全国大会には出場できませんでした。
強豪の中央大学に進学し、3年生の時にはインターカレッジで準優勝という成績を残しプロ入りを果たします。
プロ入り後は日立、トヨタ、三菱電機名古屋など様々なチームを渡り歩き、それぞれのチーム力のアップに貢献しています。
Bリーグ発足後は地元の新潟アルビレックスBBに所属し、2019年現在もチームの顔として、勝利のために努力を続けています。
(2)プレイスタイル
五十嵐圭のプレイのスタイルは、キャリアの経過とともに変化し続けています。
キャリア初期の五十嵐は、持ち前のスピードを活かしたドライブと高確率の3Pシュートを武器に、積極的に得点を狙いにいくプレイヤーでした。
プロリーグの中では180cmと小柄ですが、元日本代表ヘッドコーチのジェリコ・パブリセヴィッチに世界レベルと評されたスピードで相手をかわし、自らの手でオフェンスを完成させる五十嵐はリーグの顔として活躍してきました。
経験を積み肉体とのつきあい方が変わってくると、ビッグマンとの連携で3Pを打ったりアシストを狙うようになります。
小柄なプレイヤーにしては珍しく、ツーモーションで3Pシュートを打つプレイヤーでもあります。
(3)エピソード
五十嵐圭はその端正なルックスと華やかプレイから、まだ日本国内のバスケ認知度が低い時代だったにもかかわらず、多くの女性ファンを獲得していました。
NBAの舞台に立った田臥勇太とともに、テレビなどのメディアにも取り上げられたり、日本国内のバスケ認知度を上げたプレイヤーのひとりといえます。
私生活では2016年にフジテレビアナウンサーの本田朋子さんと結婚をしており、子供も授かっています。
今回はそんな五十嵐の人気ゆえのエピソードや、奥さんとのなれそめについてまとめました。
#1.プロバスケ界初の写真集を出版するほどの人気
五十嵐圭は日本のプロバスケ界で初めて写真集を発売したプレイヤーです。
発売当時の人気はすさまじく、アイドルのように追っかけファンがいたほど。
写真集にはオフコートでの写真が多数掲載されており、シャワー中の写真もあります。
バスケットボール選手の肉体美を存分に披露しているようなので、ぜひチェックしてみてください。
#2.本田朋子さんとのなれそめ
五十嵐圭と本田朋子さんとのはじめての出会いはスポーツ番組の取材で、そのときはお互いに相手のことを全く意識をしていなかったといいます。
食事会などを通して会っている内に自然と恋に落ち、2人で食事に行くようになって2か月が経ったころ、五十嵐のほうから告白して2人は付き合うようになったそうです。
当初は女子会を開いているような感覚だったという本田朋子さん、彼のことは全くタイプではなかったそうです。
6.日本でもっとも偉大なPG、田臥勇太
生年月日 | 1980年10月5日 |
出身 | 神奈川県 |
身長 | 173cm |
体重 | 75kg |
出身校 | ブリガムヤング大学ハワイ校(アメリカ) |
所属チーム | 宇都宮ブレックス(B1東地区) |
日本バスケ界でもっとも有名な選手といっても過言ではないでしょう。
バスケを全く知らない方でも、ニュースやバラエティで彼の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。
生きるレジェンド、田臥勇太のプレイスタイルや偉業について紹介していきます。
(1)経歴、実績
田臥勇太は小学2年生の時にバスケを始め、当時から同学年ではずば抜けたセンスを持っていたそうです。中学時代には全国3位という成績を残しています。
田臥勇太が一躍有名になったのは秋田県のバスケ名門校である能代高校時代で、高校総体と国体、そして全国高校選抜のすべての大会で優勝しています。
高校時代にこれ以上ない活躍をした田臥は、卒業後さらなるバスケのスキルアップのためアメリカの大学に進学します。
進学後アメリカで満足のいく環境と出会えなかった田臥は、3年半で大学を中退後帰国、JBL(Bリーグの前身であるNBLの前身)のトヨタ自動車に入団します。
2004年にはフェニックス・サンズの開幕ロースターに登録され、日本人として初めてNBAのコートに立ちました。
日本に帰ってきてからはJBL(Bリーグの前身であるNBLの前身)のリンク栃木ブレックスに入団し活躍をするものの、年々落ちる3Pシュートの確率やアシスト数の低下を改善できずに苦戦していました。
2016年にBリーグが発足すると、田臥は勝負所で試合巧者ぶりを発揮し、チームをBリーグの初代チャンピオンに導きました。
(2)プレイスタイル
田臥勇太はその長いキャリアのなかで、プレイスタイルを徐々に変えてきました。
キャリア初期の田臥はスピードをつけたドライブでオフェンスのペースを上げ、的確なパスでアシストをすることができるプレイヤーとして活躍していました。
当時の日本で彼のように判断力とスピードを兼ね備えたPGは彼以外におらず、名実ともに国内No.1のPGとして君臨していました。
キャリアを積んでスピードに衰えが見えはじめても、その判断力の高さを活かしたアシストは健在で、平均成功率が低いアウトサイドからのシュートもここ一番で決める勝負強さは、チームキャプテンとしての才能です。
(3)エピソード
田臥勇太は日本のバスケに大きな影響を与えたプレイヤーです。
彼が打ち立てた空前絶後の偉大な記録は数え切れません。
今回はそんな田臥勇太の凄さがわかるエピソードを、3つピックアップして紹介します。
#1.史上初の高校9冠
田臥勇太は高校入学後すぐにレギュラーとして活躍し、1年生から3年生までの高校総体、国体、全国高校選抜の9大会全てで優勝しています。
田臥が在籍した3年間のうち公式戦で敗れたのが、1年生の時の東北大会で仙台高校に敗れたわずか1回のみというのだから驚きです。
9冠達成がかかった1998年のウィンターカップ決勝の試合には1万人以上の観客が集まり、会場の東京体育館の周囲は、一目田臥をその目で見ようという観客の長蛇の列で囲まれるほどでした。
#2.日本人初のNBA選手
2002年のトヨタ自動車入団後、田臥はすぐに抜きん出た活躍を見せ、全試合出場、通算113得点、63アシストを記録し、新人王を獲得します。
しかし1シーズンを終えた田臥は、2003年7月に単身アメリカへ渡ります。
大学時代のコーチのつてでダラス・マーべリックスのサマーリーグに参加した田臥の活躍が、デンバー・ナゲッツのスカウトの目に留まり、彼はチームの最終選考に召集されます。
日本全体が日本人初のNBAプレイヤーの誕生を心待ちにしていましたが、結果として開幕ロースター内に田臥の名前は無く、NBAへの挑戦が身を結ばなかった田臥はアメリカに残り、ABAのロングビーチ・ジャムと契約します。
ABAでの活躍もあって、翌シーズンにはフェニックス・サンズのサマーリーグに参加します。この2ヵ月のキャンプののちに、田臥は見事開幕ロースター12人のなかに入ることに成功します。
日本人初のNBAプレーヤーの誕生は、快挙として全米のメディアでも取り上げられました。
2004年11月3日シーズン開幕戦、第3クォーター残り10分、田臥がNBAプレイヤーとしてはじめてコートに立ちました。
少ないプレイタイムではありましたが、7得点を挙げた彼の活躍は、日本バスケ界の大きな一歩としてこれからも語り継がれていくでしょう。
#3.初代Bリーグチャンピオン
Bリーグが発足した2016年、田臥はすでにプロ生活を10年以上続けてきたベテランとして、チームやリーグの中心に立つポジションにいました。
2020年開催予定の東京オリンピックをはじめとした国際大会に、日本代表が出られなくなるかもしれない。そんなピンチをきっかけに発足が決まったBリーグに対しても、田臥の国内バスケを盛り上げたいという想い入れは強かったはずです。
それまでのNBLでのレギュラーシーズンの成績は、特に3P成功率が落ち、アシスト数も減っている状態でした。
Bリーグが開幕すると栃木ブレックスのブースターたちの声援の後押しもあり、2016〜17シーズンの田臥の3P成功率は27.8%、FG成功率は49.7%と、勝負どころできっちり決めるプレイでチームをけん引しました。
レギュラーシーズンで全体2位に入ると、Bリーグチャンピオンシップでは強豪である千葉ジェッツとシーホース三河を倒し、決勝で川崎ブレイブサンダースと対戦。
味方の活躍もありましたが、田臥もFG成功率66.7%9得点5アシストと活躍を見せ、晴れてBリーグ初代王者になったのです。
7.未来の日本のエース、岡田侑大
生年月日 | 1998年6月10日 |
出身 | 京都府 |
身長 | 189cm |
体重 | 80kg |
出身校 | 拓殖大学 |
所属チーム | シーホース三河(B1中地区) |
岡田侑大は日本のバスケ界を背負う若きPGとして注目されています。
高校時代から実力と名声は全国区だった彼のあだ名は、「プリンス」。
今回はバスケ界の貴公子、岡田侑大の特殊な経歴やプレイスタイルなどを紹介していきます。
(1)経歴、実績
岡田侑大は東山高校3年の時にウインターカップで準優勝を果たし、拓殖大学でも1年生の時からレギュラーで活躍をしていました。
また外国籍選手との連係プレーも絶妙で、関東大学バスケットボールリーグ制覇に大きく貢献しました。
その後大学を中退しシーホース三河に入団します。
(2)プレイスタイル
PGとして積極的にファストブレイクを狙うタイプでなければ、ドライブのスピードで相手ディフェンスを抜き去るといったタイプのプレイヤーではありません。
相手ディフェンスとの間合いを読みながらその場その場で適切な1on1オフェンスを選択し、自らの手で得点したり、フリーの味方にパスを出すプレイヤーです。
3Pシュートのフォームには力みがなく、ハーフスピードの動きも相まって、岡田のプレイはステフェン・カリーやディアンジェロ・ラッセルなどの現代NBAのPGの動きととてもよく似ています。
(3)エピソード
岡田侑大は拓殖大学でエースとして活躍している中で突如としてプロ入りを決断し、とても大きな注目を集めた選手です。
大学を辞めてプロ入りをした理由や、バスケットボールを始めた理由などを紹介していきます。
#1.バスケットボールを始めたきっかけ
岡田侑大がバスケットボールを始めたきっかけは父親の影響が大きいそうです。
父親もバスケットボールを実業団でしていて、岡田侑大は野球をしていましたが、小学4年生の時にバスケットボールを本格的に始めました。
岡田侑大が学生時代に着けていた背番号2は父親の真似をしてつけていたそうです。
ちなみにBリーグでは30番を背負っていますが、ステフェン・カリーが好きなので少しでも追いつくことができるようにつけているそうです。
#2.大学を中退してプロ入りを決意した理由
岡田侑大がプロ入りを果たしたのは20歳の時で、当時拓殖大学2年生のチームエースとして活躍の真っただ中にいたときでした。
大学中退でのプロ入りは前例がなく、岡田が初めての例です。
順風満帆な大学生活を中退してまでプロ入りを決意した背景には、拓殖大学の監督からの後押しがあったと言われています。
プロ入り後順調にプレイタイムを与えられると、持ち前の度胸で華やかさのあるプレイを連発。彼がシーホース三河のスターティングPGになる日も近いでしょう。
まとめ
今回はballaqが選んだBリーグの注目してほしいPGを6人紹介しました。
かつてPGはコート上の司令塔としてとても重要な役割を果たすポジションでした。
現代バスケでは徐々に自身で得点を狙う選手も増えてきており、よりゲームの花形として注目されていくポジションでもあります。
紹介した選手が活躍するBリーグは2016年に発足したばかりの新しいリーグ。今後の発展次第では、NBAなど世界の舞台で活躍することができる選手が出てくるかもしれません。
ぜひ今回紹介した選手のプレイを観に、試合会場に足を運んでみてはいかがでしょうか。
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